- 「知ってる。それTVで見たよ!」
- 「この前TVでやってたんだけどXXXは…」
よくあるセリフですね。でもTVの放送内容のうち現実はどのくらいなのでしょうか。人の視覚は動くものに注目するようにできていて、動画やTVの与える印象というのは強烈です。好きな番組に毎週かじりついてしまったり、あるいは番組に合わせて家に帰ったりという経験がある方は少なくないでしょう。
内容を考えるとたいした番組でもないのに、古い人気番組が神格化されて扱われることもよくありますね。 個人の懐かしさを呼び起こす番組の記憶が、TV自身を通して世代を代表するような出来事に昇格されてしまっています。TVの世界がその中身(TV番組)を持ち上げようとするのは当たり前ですが、本来その外の世界の視聴者は、TVというメディアで結びつけられ、集団化してしまうのでしょう。
テーマ選定のフィルター
まず、限られた時間の中で、どうしてそのテーマが選ばれたのか、その時点で現実とTVの世界では全く異なっています。報道番組については、メディア論でよく語られることなので、意識する方もいらっしゃるでしょう。人々が案外受け入れてしまうのは、それ以外の番組です。
例えば、旅番組でQ国が取り上げられたとしましょう。どうしてQ国だったのでしょうか?普通の人はそんなことは考えもしませんが、考えたとしても、
『順繰りにいろいろな国を検討する中で、今回はたまたまQ国になったんだろね。 』
ぐらいの考えにしか至りません。現実は、広告代理店がQ国を選んだという可能性が高いです。例えば各国が大使館を通じて自国の観光PRを広告代理店に依頼することはよくあります。代理店は、TV番組、雑誌、ネットなどに、予算を投じて尺(時間)やページを確保して、Q国が希望する内容の番組や記事を制作します。あるいは内容はQ国で制作済みでそれを流し込むだけのこともあります。
一つの番組にまとまっていれば気づけますが、クイズ番組の中の出題の一つとしてQ国の問題が織り込まれていたら、それが企画段階のフィルターの結果だと気づけるでしょうか?
放送された番組は視聴率を基準に経済効果の金額に換算され、雑誌ページであれば販売数から金額に換算され、ブログ記事であれば閲覧数が金額に換算され、発注元のQ国大使館に報告されます。結果が良ければまた次に仕事がくることでしょう。
制作目的と現場のすれちがい
TV局側が、あるテーマを持って番組をプロデュースしようとしたとしましょう。でも実際にTVカメラを回して、ナレーションを入れて制作するのはTV局とは限りません。報道でない限り、TV制作会社が請け負うことの方が多いでしょう。
TV制作会社の倫理規範というのは、TV局の倫理規範より緩いと考えてよいでしょう。もちろん局側は発注者の責任として高い規範を建前上要求します。しかしTV局と比べて経営基盤が脆弱な制作会社が、その規範を守れる状況にあるとは限りません。
よくある例がインタビューのシーンです。街頭インタビューで一般の人の意見のように語られたのが、実は役者が答えていたとかいう報告は何例もあります。一般人であっても、原稿を渡されたという例もあるようです。なんといっても、女優Qを褒めたければ、1000人インタビューして「Qってステキ」と答えた3人だけを流せばよいのですから、いくらでも操作ができます。局の建前としては、そのようなことがないよう契約で制作会社を縛ります。しかし制作会社の最前線で働く人の証言によれば、時間的経済的労力的条件の中でそれを守り切れません。
海外でのインタビューシーンは一層信用なりません。日本人ならば、日本人同士の日本語の受け答えに微妙な不自然さがあれば気が付きますが、Q国でのQuqa語のやりとりとボディランゲージの不自然さに気付ける人は多くありません。制作会社がいい加減な制作をしても、局ですら気が付けないことがあります。
消えるビルのマジック
大掛かりなマジックで、ビルや豪華客船や自由の女神を数秒で消すというのがあるのをご存知でしょう。大きなビルを映しておいて、カメラの前を幕で隠して数秒ごたくを並べ、幕を上げるとあら不思議、ビルが消えています。
幕で隠す数秒間に、テレビカメラを移動したり、カメラの方向を変えたり、鏡を置いたりするわけですね。
実はこれの応用があらゆる番組で行われています。つまり、カメラに映る範囲には限りがあって隠す幕しか映らず、その周囲で何が起きているのかは映っていないのです。 マジックの現場なら、カメラ移動のレールがあったり、カメラの方角が変えられたり、大きな鏡が設置してあったりするのです。
視聴者も良く知っているのは、ADがカンペを出していることでしょう。これは当たり前すぎて、このカンペまで見せて番組に含めている場合もあるくらいなのですが、クイズ番組や評論風番組でまでこれがあることは忘れられているかもしれません。
ラッパーがTV番組でカンペを読み上げていた実例を私は目撃しています。
タレントのダンスや演技で、指導者がカメラの後ろで見本を踊っていることはよくあります。動物番組では、カメラの脇に動物の調教師が控えていて、演技をさせられている場合もあります。現代ならシェークスピアの大作品でも動物役者で制作できるでしょう。調教された動物の演技を撮り、編集で順番の入れ替えなどをし、動きにCGでの修飾をし、想像力を排除して動物の演技の解釈を強制するために台本に沿った字幕とナレーションを入れれば、それ風になります。
ドミノ倒し挑戦のような時間のかかるものの場合、時間制でギャラが発生するタレントが全ての活動を行っているとは限りません。動物飼育のような24時間管理が必要なものの場合、タレント以外のスタッフが控えていた方がむしろ好ましいでしょう。映像に映らない時間にタレント以外のスタッフがドミノを並べたという実例を知っています。当然スタッフが誤ってドミノを倒してしまうミスが発生することもあり、タレントがその修復を「手伝う」なんてこともあるのが笑いどころです。その番組を放映後に検証したところ、出演タレントのみでドミノを並べたという宣言や、出演者以外は誰もドミノ並べに参加していない旨の表現は、確かにどこにもありませんでした。
(本当にタレントが100%活動にあたっている現場の方が普通でしょう。しかしこれも、労務管理での問題つまりタレントの酷使を含むようであってはなりません。昨今は事務所やTV局とタレント・芸人との契約の不透明さの報道が続いており、疑いがもたれます。)
笑っているのは誰なのか
人間は太古の昔から群れで行動してきました。他の動物の群れよりも、人間の群れの中のコミュニケーションを強固にすることで、体のつくりが多少弱くても、他の動物に対する優位性が確保できたかもしれません。人間を含めた動物には、他の個体と同調して動く仕組みが備わっています。具体的にはミラーニューロンのようなものが発見されたりもしていますね。あくびが伝染したり、目の前の人が笑うと、こっちも可笑しくなったりしますよね。たいして可笑しくなくても、群れの掟なのかこっちも笑った方がいい気がして、笑顔を作らないと居心地が悪くて、結局笑ってしまうこともよくあるでしょう。
TV番組で、音響効果として笑い声が入っていることがよくあります。あれは誰の笑い声でしょうか?収録に本当に一般観覧者(笑い屋さん)を入れて反応の声を真面目に録音していることもあります。でも、既に録音された笑い声を音響ライブラリーからコピーしているとして、それにあなたは気づけるでしょうか?一般人を入れるスペースがないスタジオで収録されているはずの番組に、群衆の笑い声が入っていることはよくあります。気軽なバラエティ番組だと、まれにスタジオ全景や、スタッフいじりのために周囲の映像が映ることがありますが、挿入されている笑い声の雰囲気とは全くつじつまが合わないスタッフ数だったりします。
笑っている人がいないのに笑い声が入っているとすると、そこに笑い声が入っているのは編集した制作者の意図です。人の笑いの習性を利用した制作者に、あなたの笑いは制御されているのかもしれません。
これのもう少し気づきにくい巧みな例が、効果音や背景音楽です。動物の走るシーンの「ピョコピョコ」音は言うまでもなく、報道番組やドキュメンタリー番組でさえ、音楽を挿入することは頻繁に行われています。そこでは、幼稚園児の餅播き映像には素朴な童謡、海峡での軍事衝突には行進曲風のものだったりします。もちろん制作者の意図に沿った音楽が選択され、それにあなたの感情は制御されている可能性があります。
笑っているのは誰なのか笑顔の巻
ニュース番組は誰しもご覧になったことがあるでしょう。ニュース番組の目的は、ニュースを伝えることです。説明には図絵や動画を組み合わせますが、主たる伝達は、アナウンサーの語りに依ることは疑いないでしょう。
ニュース番組は、まずタイトル画面が映り、次に「こんばんは」等のあいさつとともにアナウンサーの姿が大写しになります。でもニュースとアナウンサーの姿は何の関係もないはずです。例えば今日の項目でも大写しにして、アナウンス担当者名はエンドロールに流す程度でよいはずです。大統領の演説のニュースの前に、大統領と同じ大きさでアナウンサーの姿がまず映るのでは、バランスが取れません。このアナウンサー映像の無意味さは、ニュース配信のWeb化によって一層はっきりしました。
アナウンサーはみな美形で、明らかに一般人の集まりからは偏りのある外見の人々です。何の意味があるのでしょう。もちろん視聴者の目を引いて視聴率を上げるためです。人はみな、古代の群れの時代からの癖として、ニュースよりも人に会いたいし人の顔を観たいのだと思います。実際、視聴者が画面のどこを注目するかは、今のWebの視線解析などよりずっと前のTV放送の発祥直後から詳しく研究されて、それを受けて収入を最大化するような構成を求めた結果が現代の番組形式となっています。どの瞬間で視聴率が上がるかも細かく統計を取られていて、誰が出ているシーンが視聴率のタネになるのかは常に分析されています。
昔、とある人気女子アナが、ディレクターに「スカートをはいてこい」と命令され、これを断ってパンツスーツで出演したら番組を外されたと証言しています。今はスタイリストさんがついていてこのような話は起こらないと思いますが、逆に制作側からの統制は服装にまで行き渡っているとも言えるでしょう。
一般の番組でも、番組の進行に合わせてタレントの表情映像が小さく挿入される場合があります。この場面で笑ってほしいとか驚いてほしいとか、制作側の意図に合う映像が挿入され、意図に合わなければ挿入されません。タレントは、自分が映り込むことが仕事なので、期待された表情をすることでしょう。 笑っているのはタレントだというのは事実です。しかし、視聴者の選択でタレントの顔を見ているのではありません。制作側が選択した操作によって、笑顔を見せられているのです。視覚は、聴覚より強い印象を与えることができます。笑い声以上に、笑顔は同調を引き出しやすいのです。 こうした挿入映像が視聴者の同調を引き出す目的であることは、制作側がはっきり認めており、番組上で公に語られたこともあります。何の規定にも違反せず、認めても構わないという判断なのでしょう。
放送作家が語りタレントが喋る
旅番組でどこをめぐるかなどは、あらかじめ取材をしてロケハンを行い、会議で行先を決定した台本通りでなければなりません。ぶらぶら歩いて偶然見つけたお店で撮影交渉をするようなことは、番組の品質と、予算の上からあり得ません。タレントには時間単位でギャラを支払うのですから。
タレントは単に指示を受ける程度かもしれませんが、スタッフは皆台本を見て統制された行動をします。移動を例にとっても、現地へ向かう車を何台準備して、各々の車種とナンバーは何で、各々どのシーンの撮影に誰が乗ってどこまで行くのか、帰りは何時ごろになるのか計画して出かけます。番組制作でなくても、観光旅行でさえ、どうやってそこへ行くかは大きな問題ですよね。
お笑い芸人などのタレントの芸が、タレント本人の芸でない場合もあります。放送作家が台本にそのタレントが言いそうなギャグを書くのです。この芸は誰のものなのでしょうか。放送作家がそのギャグを言ってもウケないし番組にもならないので、放送作家のものとは言えないでしょう。一方、視聴者はタレントの芸だと思い込んでいますが、作ったのが本人でない以上、ある種の錯覚でしかないでしょう。ここまで極端でなくタレント本人の持ちネタであっても、それを出すタイミングを支持するのは、放送作家を始めとする制作側だったりします。オヤクソクということで視聴者が楽しめればいいのかもしれませんが、それにより視聴者の印象が変わるのですから操作の一種には変わりありません。
台本が設定されているのは、ロードムービー風の作りの番組や男女恋愛ものでも同じことです。台本に沿った恋愛って楽いのでしょうか?恋愛小説と同じく、作り物であっても恋愛ものは楽しいから視聴率が取れるのでしょう。局や制作側のよくある言い分は、視聴者も作り物とわかっているから良いというものです。
「TVは演出された舞台のようなもの」なのです。
ことは一般人への取材へも及びます。取材というと、テーマに沿って意見を求められるという印象があるかもしれません。実態は、テーマに沿ったストーリーはTV局や制作側で既に決まっており、それに沿った話を強制されたり誘導されたりします。沿わない話は編集で容赦なく切り落とされます。
生放送の番組であっても、事情はなんら変わりません。ほとんどの場合は事前にリハーサルが行われ、リハーサル通りに受け答えをすることが求められます。
タイムマシン編集
TVを見る側は、番組を最初から終わりの方へ向かって順番に見ていきます。では作る方はどうでしょうか。最初から順番に作っていくわけではありません。効率の良い作り方をします。あるいは、視聴率が上がってお金が入りやすい内容を求めます。
時には、同じシーンを繰り返し使ったり、前後を都合よく入れ替えたり、全く違う時に撮影したものを途中に挿入したりします。
食レポ(お店にタレントが行って料理の感想を語る)ものなどでは、お料理のシーンとタレントが食べるシーンを別にとるのは普通のことです。タレントのギャラは時間単位で支払いますから、お店でお料理のアップのシーンを撮っている間にタレントに待機してもらうのではお金がかかり過ぎます。視聴者が見るのは、タレントが箸を動かしたシーンの直後に、別の日に改めてお店で撮影した料理のアップが挿入された映像です。
さらに、食レポ映像にスタジオひな壇で他のタレントがツッコミを入れる場合、ツッコミ芸人が見ている映像と、視聴者のあなたが見ている映像は違うものかもしれません。スタジオ収録に食レポ映像の編集が間に合っている保証などないのですから。ディレクターが「ここの映像は今はありませんけど、後で編集で料理のアップが入ります」とひな壇に説明しているだけということもあります。
ドキュメンタリータッチのもの、例えばタレントが未経験の芸術や音楽やスポーツに挑戦するものの場合も、タレントの実演が引き立つよう様々な編集が行われます。実演の途中に厳しい顔の審査員や指導係の映像を挿入したり、観客のハラハラする顔や驚く顔や応援する様子が挿入されたりします。もちろん視聴者の同調を引き出す効果があることでしょう。でもこれらが本当の時間の流れに沿ったものとは限りません。編集する側からいえば、タレントの演技のタイムラインと審査員の動きのタイムラインを同期させるなんて、誰から頼まれてもいないのに面倒なだけで視聴率上は何の効果もない作業でしょう。 映像の順番を変えるななどどいう要求が、視聴者から出ることはないのです。しかし視聴者は、同期されていると 勝手に根拠なく思い込んでいます。
音楽のように滑らかにつながり流れる映像を見せられると、音楽のように事の流れを人の脳は感じてしまうのでしょう。
TVは廃れても専制は廃れない
ネット動画の時代になり、TVの広告予算は下がる一方、ネット広告の予算の方は増大の一途です。人々のTV視聴時間にしても同様です。
ネット動画は個人による制作が現状多いですが、その分品質のばらつきが大きいですね。倫理面では、例えば報道記者倫理のような宣言は全く見られません。それなのに予算だけは大量に投入され、やりたい放題の状態にあると思います。フェイクニュースも、簡単にできるぶんだけ表に出て一般メディアの話題になる時代です。
VR、ARなどの融合もあっという間に実現し、今後はむしろ現実がネット上の動画などにすり寄っていく場面もあり得ます。twitterやFacebookのアカウントで作り込んだ記事に、ひとつの人格を思わず仮定している人も多いでしょう。人間のゲシュタルト化能力(形式的に過ぎない事物に必ず意味を見出そうとする癖)上避けられないことです。
YouTuberを越えて、VTuberの時代に入っていますし、これに五感センサーとアクチュエーター(人形)が結びつく研究例さえ出始めています。この時代の情報統制、情報専制を考える時、TVの時代に起きた倫理荒廃は参考になると思います。