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不具合事例研究

調査研究の過程で、様々な組織のシステムの不具合を発見することがあります。我々の目的は個人情報保護やセキュリティの確保にあるので、これと直接関係ない不具合への対応は優先度が低く、見過ごすままになることもしばしばです。

本来の活動について公開できることはほとんどないのですが、代わりにこのような脇道での発見例をご紹介します。

具体的な固有名詞や数値は仮のものとし、状況もぼかして置き換えます。

官庁と金融機関間の調整不足

海洋庁「ミカン島振興に関する事務はレモン銀行が担っていて、1回に100億まで対応可能です。」

レモン銀行「海洋庁様関係の事務は1回に1千万円までとさせていただいています。」

矛盾する両者に調整を促しました。一週間ほどして、レモン銀行から100億まで対応するとの返答を口頭で得ました。しかし、対応変更に関する公式の広報や報道は行われませんでした。

なお、この事務遂行には時限が設定されていて、残り時間の少ない時点での歩み寄りでした。状況からみて、事務を依頼する側の民間第三者側からは外部に公表できない事例です。ということは、我々の関与以前に何らかの事故が既に発生していたとしても、情報共有がなされていない心配もあります。仮にそのような事故があった場合(透明性が全くなくて発生していいたかどうか全く不明です)、無実無垢の事務発生元の方々だけが責任を負ってどこにも相談や公表ができないこともあり得ます。

法律上の努力義務の未達

リンゴの普及加速は世界的な潮流です。日本でも近年法律が定められ、リンゴ好きを宣言した市民の通帳にはリンゴマークを入れることが金融機関の努力義務とされました。

我々のうちでリンゴ好きの国家認証を得た者が、モモ銀行でリンゴ好きを宣言してみました。しかしモモ銀行は通帳をピンク一色のものしか準備していません。

努力義務ではあるものの、金融庁の担当部局が専門の相談窓口まで設立し、広報パンフレットも制作配布して業界に徹底を求めている事項です。リンゴ業界団体、金融庁担当部局、モモ銀行のコンプライアンス部門の各所に連絡してみましたが、解決しません。一応は三者の間で一定の情報交換が行われた気配はあり、後日追加の情報提供を我々に求められ、複数回のやりとりをしました。それでも、結果としてはモモ銀行の通帳にリンゴマークが入るには至っていません。

担当部局に報告ができない

「大人ゲーム年鑑」といえば、本屋で平積みにされるほど人気の書籍です。表紙ぐらいは一度はどなたもご覧になったことがあるでしょう。

その本の見返しページに目立つように、以下のような告知がありました。

料理ゲームに関する情報をお持ちの方は、当編集部内の料理研究会03-987-654-321にお電話ください。

料理ゲームについての情報が手元にあったので実際に連絡してみました。すると、電話口の相手はあからさまに困惑し、

「そのような会はこちらにはありませんが…」

という答えが返ってきました。先方自身による告知内容を伝えてしばらくの期間待って、ようやくご担当者様と連絡がつきました。

自分たちのシステムに興味を持っていない

音楽庁の楽曲くつろぎ度システムに問題があり、法律政令省令通りに計算できなくなっていました。音楽庁に連絡すると

音楽庁:「我々のシステムは国民の便宜のために公開はしていますが、あくまで参照や補助のためなんです。正確性や可用性を100%保証するものではありません。正確な計算をするのは、専らに国民側の義務です。手計算や専門家に依頼するなど、別の手段で正確な値を提出してください。」

我々:「実は不具合の再現方法を調べました。原因はウクレレのライブラリとも判明しています。詳細をご報告申し上げたいので担当部署につないでいただけませんか?」

音楽庁:「当窓口は楽曲くつろぎ度見積もり方法に関するお問い合わせ窓口です。システムに関することは開発会社に全てお任せしていて、当窓口では対応しかねます。」

我々:(ここは実際のやり取りの言葉のママ)「ご自身のシステムの問題なのに興味をお持ちではないのですか?」

音楽庁(実際のやりとりのママ):「興味ありません。」

書式や記入要項が誤っている

書類に記入規則が細かく指定されているというのは日本ではよくあることです。官庁なら日常的ですし、民間企業でも規模の大小によらずどこでも見かけます。

標準的な書式としてExcelやWordやPDFのテンプレートファイルが準備されていることもよくあります。ところが、そうした公式の標準的なファイルの入力欄には、様々な入力制限がかかっていることが多く、これがその組織自身が定めた書式と矛盾するということも起きます。

例外的入力ルール、例えば「法13条適用時は数字の後に(13)と必ず追記のこと」というようなものを見つけると緊張します。実際、対応するExcelフォームに(13)と入力しようとすると、その欄には数字以外のもの()は入力できないといった事故がよく起きています。コロナ禍以降のWeb申請・電子的申請の広がりで、こうしたケースの発見例が相当に増大しました。

pdf formfield validation error
入力フィールドに安易に文字種別の制限がつけられたために、ルールに沿った申請を妨げてしまうことがある。

法律が関係する場合は深刻です。提出が義務付けられている官庁向け書類で規則通りに記述することが許されないと、事務が行き詰ってしまいます。

そして、公式のファイルを使うと正しく入力ができないことを報告しようとする時ほど高い割合で、前の節の「担当部局に報告ができない」あるいは「自分たちのシステムに興味を持っていない」のような事態に陥ります。袋小路、あるいはマーフィーの法則を想起します。

寄付が契約の一種であるなら

高額の寄付が報道の対象となることがあります。政治家との間の寄付が問題視されたりすることもあります。匿名か記名か、その理由を探るひともいます。なぜ寄付というのはこうも耳目を惹くのでしょう?

使ってこそのお金

お金というものは、それ自体が役に立つというよりも、何か他の事物に交換できるから意味があるのだと思います。いわゆる交換価値ですね。もちろん日々のキャベツの値段の上がり下がりを見るような価値基準であったり、使い切れないお米を市場で売って将来買い戻して使うというような価値保存の役割というのもあることでしょう。しかし

「使ってこそのお金」

であって、棺桶の中で価値保存したつもりだった札束を抱えてみても、そこに何ら価値が感じられないことが予想できます。棺桶一年前の病院で鮨に交換して食べるとか、棺桶三年前の歩けた時に飛行機代に交換して南の島に旅行しておくべきだったのです。

さて、お金が有限で、しかも結局何かに交換するさだめとするなら、それは一種の資源とみてよいでしょう。ただし、石油とかお米とかと違って、液体だとか粒だとかそいういう性質は捨象されて価値だけが残っています。石油やお米と同じで、大事に使わなければなりません。しかし訓練をしなければ効率よくお金を使うことは難しいです。多くの一般市民は10万円を楽しく使い切ることはできるでしょう。しかし、10万円×1億人=10 億円を渡されたときに、自分と同じ市井の人々一億人に同じような楽しさを配分するような使途を実現することはなかなかできないものです。子供の高額のお年玉を親が一旦預かり、使い方がわかる歳になってから渡すというのも一般的なことでしょう。

自分よりも有効に使える人に資源の使用を委託するというのは、賢い考えだと思います。

寄付は約束

寄付の話に戻りますと、自分のお金を単にどこか別な場所に移動しただけなら、それはお米をどこか公園に放置したのと同じで、何の意味もありません。高齢者施設や給食センターに事前に話をつけて、引き渡し方法や用途を事前に相談して渡すのではないでしょうか。そこには。困っている人の役に立ちたいとか、食品ロスを減らしたいとか、暗黙のあるいは明白な意図が多かれ少なかれあるのです。

寄付というのは、寄付する側が意識するしないに関わらず、相手があっての行動です。

  • ある主体(個人法人団体)が企図を持ち、
  • 寄付を受ける他の主体という相手方がおり、
  • 寄付する側は他企図を念頭に資源の使途を委譲あるいは指図する。
  • 寄付を受ける側は陽な用途の指示を受けたり、それがなくてもルール(明文・暗黙・双方が共有する社会規範)のもとでの行動をとる。

のならばそれは約束事(契約)です。

約束事というのに違和感があるかもしれませんが、約束でないならば、他の主体が企図を外れた使用を行っても何ら文句は言えません。使途を限定しない寄付というのもよくありますが、これは寄付先の主体の特性を鑑みて「使途は限定しない」と定めたのであり、約束事の一つです。孤児院に対して自由に使ってくださいと寄付することはあるでしょうが、その孤児院が暴力団による経営で、理事へと使用管理が再委任されて「自由に」使っていたらどう感じるでしょうか。常識による孤児院の活動範囲の想定が寄付する側にはちゃんとあって、全くの自由なわけではないのです。最初から本当に全く使途の限定がないような種類の企図であれば、その企図にそぐう誰かを探して頼むようなことはせず、自分で札束をゴミとして出すのが最も効率が良いです。これでも企図通りの使用でなんの文句もないはずです。

ラーメン屋さんで食事をする際には、客と店の双方が明文・暗黙のルールに従うことが期待されていて、双方の間には契約が存在します。実際に裁判所が法(明文法・商習慣・社会通念)に基づいてその暗黙の契約に基づき判決を出すこともあるでしょう。これと同じで、寄付も契約なのです。

一般常識や社会通念として現在考えられているところでは、寄付や譲渡は、相手がその内容を認知しないと成り立たないとされています。例えばこっそり勝手にお金を渡しても、厳密には相手のものになっているとは言い切れないのです。贈与のつもりで親が子供の口座にお金を振り込んだとして、実はその口座は親が作ったもので子供がそれに気づかず使いもしなかったら、贈与があったとは税務署は認めません。生前贈与による税控除を見込んでこのような行動をとる親がいるそうですが、贈与がなかったことにされて期待した税の控除も受けられず、親が死んだときにその口座のお金にはまるまる相続税がかかります。

匿名の主体との約束はどこまで果たせるか

約束事とすると、匿名での寄付の危うさが見えてこないでしょうか。寄付された側からすると、匿名の人との約束は果たしにくいのです。寄付する側には、暗黙の約束やぼんやりとしながら企図がありながら、受贈側にその準備ができているとは限りません。

お金ならば、いつどのような形で贈られても困らないだろうというのは素朴すぎる考えです。不透明なお金の流れや法に触れかねない資金移動に対して「これは寄付でした。」という言い訳をすることがありますが、それを市民は素朴に許してきたでしょうか?寄付する・されるの関係が上で述べてきたように陽に陰に約束事である以上、双方間の関係性がそこにはあるのですし、周囲からもそこには見えるのです。無関係の人から急に寄付を受けて訝しがるのは、自然な反応です。ヒトというのは、群れの中の関係性や社会性に敏感な生物だと思います。

こうした事情から、投稿者の私が個人的にどこかに寄付をする際は、記名による方式を選んでいます。