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寄付が契約の一種であるなら

高額の寄付が報道の対象となることがあります。政治家との間の寄付が問題視されたりすることもあります。匿名か記名か、その理由を探るひともいます。なぜ寄付というのはこうも耳目を惹くのでしょう?

使ってこそのお金

お金というものは、それ自体が役に立つというよりも、何か他の事物に交換できるから意味があるのだと思います。いわゆる交換価値ですね。もちろん日々のキャベツの値段の上がり下がりを見るような価値基準であったり、使い切れないお米を市場で売って将来買い戻して使うというような価値保存の役割というのもあることでしょう。しかし

「使ってこそのお金」

であって、棺桶の中で価値保存したつもりだった札束を抱えてみても、そこに何ら価値が感じられないことが予想できます。棺桶一年前の病院で鮨に交換して食べるとか、棺桶三年前の歩けた時に飛行機代に交換して南の島に旅行しておくべきだったのです。

さて、お金が有限で、しかも結局何かに交換するさだめとするなら、それは一種の資源とみてよいでしょう。ただし、石油とかお米とかと違って、液体だとか粒だとかそいういう性質は捨象されて価値だけが残っています。石油やお米と同じで、大事に使わなければなりません。しかし訓練をしなければ効率よくお金を使うことは難しいです。多くの一般市民は10万円を楽しく使い切ることはできるでしょう。しかし、10万円×1億人=10 億円を渡されたときに、自分と同じ市井の人々一億人に同じような楽しさを配分するような使途を実現することはなかなかできないものです。子供の高額のお年玉を親が一旦預かり、使い方がわかる歳になってから渡すというのも一般的なことでしょう。

自分よりも有効に使える人に資源の使用を委託するというのは、賢い考えだと思います。

寄付は約束

寄付の話に戻りますと、自分のお金を単にどこか別な場所に移動しただけなら、それはお米をどこか公園に放置したのと同じで、何の意味もありません。高齢者施設や給食センターに事前に話をつけて、引き渡し方法や用途を事前に相談して渡すのではないでしょうか。そこには。困っている人の役に立ちたいとか、食品ロスを減らしたいとか、暗黙のあるいは明白な意図が多かれ少なかれあるのです。

寄付というのは、寄付する側が意識するしないに関わらず、相手があっての行動です。

  • ある主体(個人法人団体)が企図を持ち、
  • 寄付を受ける他の主体という相手方がおり、
  • 寄付する側は他企図を念頭に資源の使途を委譲あるいは指図する。
  • 寄付を受ける側は陽な用途の指示を受けたり、それがなくてもルール(明文・暗黙・双方が共有する社会規範)のもとでの行動をとる。

のならばそれは約束事(契約)です。

約束事というのに違和感があるかもしれませんが、約束でないならば、他の主体が企図を外れた使用を行っても何ら文句は言えません。使途を限定しない寄付というのもよくありますが、これは寄付先の主体の特性を鑑みて「使途は限定しない」と定めたのであり、約束事の一つです。孤児院に対して自由に使ってくださいと寄付することはあるでしょうが、その孤児院が暴力団による経営で、理事へと使用管理が再委任されて「自由に」使っていたらどう感じるでしょうか。常識による孤児院の活動範囲の想定が寄付する側にはちゃんとあって、全くの自由なわけではないのです。最初から本当に全く使途の限定がないような種類の企図であれば、その企図にそぐう誰かを探して頼むようなことはせず、自分で札束をゴミとして出すのが最も効率が良いです。これでも企図通りの使用でなんの文句もないはずです。

ラーメン屋さんで食事をする際には、客と店の双方が明文・暗黙のルールに従うことが期待されていて、双方の間には契約が存在します。実際に裁判所が法(明文法・商習慣・社会通念)に基づいてその暗黙の契約に基づき判決を出すこともあるでしょう。これと同じで、寄付も契約なのです。

一般常識や社会通念として現在考えられているところでは、寄付や譲渡は、相手がその内容を認知しないと成り立たないとされています。例えばこっそり勝手にお金を渡しても、厳密には相手のものになっているとは言い切れないのです。贈与のつもりで親が子供の口座にお金を振り込んだとして、実はその口座は親が作ったもので子供がそれに気づかず使いもしなかったら、贈与があったとは税務署は認めません。生前贈与による税控除を見込んでこのような行動をとる親がいるそうですが、贈与がなかったことにされて期待した税の控除も受けられず、親が死んだときにその口座のお金にはまるまる相続税がかかります。

匿名の主体との約束はどこまで果たせるか

約束事とすると、匿名での寄付の危うさが見えてこないでしょうか。寄付された側からすると、匿名の人との約束は果たしにくいのです。寄付する側には、暗黙の約束やぼんやりとしながら企図がありながら、受贈側にその準備ができているとは限りません。

お金ならば、いつどのような形で贈られても困らないだろうというのは素朴すぎる考えです。不透明なお金の流れや法に触れかねない資金移動に対して「これは寄付でした。」という言い訳をすることがありますが、それを市民は素朴に許してきたでしょうか?寄付する・されるの関係が上で述べてきたように陽に陰に約束事である以上、双方間の関係性がそこにはあるのですし、周囲からもそこには見えるのです。無関係の人から急に寄付を受けて訝しがるのは、自然な反応です。ヒトというのは、群れの中の関係性や社会性に敏感な生物だと思います。

こうした事情から、投稿者の私が個人的にどこかに寄付をする際は、記名による方式を選んでいます。